最近、お見かけしないなと思っていたら、ずいぶんと年を取られましたね。
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親・滋さんのことです。
にこやかな笑顔が印象的な方でしたが、久しぶりに写真を拝見して「ああ、年をとられたな」と思いました。
そして、もう本当に時間がなくなってきていることを痛感しました。
40年前の11月15日、当時13歳のめぐみさんが北朝鮮の工作員によって拉致されました。
この事件が明るみに出るまで20年もかかったのは、なぜだったのでしょうか?
新聞やテレビの責任も大きかったと思います。

【拉致40年 めぐみさんを救え(1)】
老いる父…誕生日に「あの日」を重ね
両脇を支えられ、ゆっくり杖をついて現れた。うつろな視線。ひとりで歩くのもままならない。「お久しぶりです」と声をかけると、顔をあげた。柔和な表情を浮かべる。「ああ…、ごぶさたしています」。口ごもりながらも、あいさつを返してくれた。
腰掛けるにも介助が必要だった。髪は真っ白になって久しい。会話中でもしばしば目をつぶり、突っ伏しそうになる。「お父さん、起きてください」。妻の声にうなずく。強い薬の影響もあって、体調が悪い日は時々、意識が混濁する。
みな老いる。病みつく。14日で85歳になった。この1年で体は急に言うことをきかなくなった。字が書けない。言葉が出ない。「こんなふうになるなんてね」。横田めぐみさん(53)=拉致当時(13)=の父、滋さんのとなりに座る母、早紀江さん(81)はそうつぶやいた。
■ ■ ■
「これからはおしゃれに気をつけてね」。40年前の滋さんの誕生日。中学1年だっためぐみさんは小遣いからこげ茶の携帯用の櫛を買い、滋さんにプレゼントした。家族で囲んだ秋の夜の食卓は温かかった。
めぐみさんは翌朝、「行ってきます」と登校したきり、帰ってこなかった。北朝鮮工作員が無慈悲に連れ去った。耐え難い境遇。滋さんにとって、誕生日を重ねることは、めぐみさんが忽然と姿を消した「あの日」を重ねることだった。
めぐみさんからもらった櫛はジャケットの胸ポケットやセカンドバッグに入れて持ち歩いていた。だが、外出頻度が減った最近は寝室のたんすの引き出しに保管したままになっている。
めぐみさんは「おとうさんっ子」だった。4つ下の双子の弟が生まれ、早紀江さんがかかり切りになったため、めぐみさんは滋さんになついた。滋さんも溺愛した。「いつも抱っこしていた」(早紀江さん)
滋さんは暇さえあれば、めぐみさんや家族の写真を撮った。家族旅行、運動会、雪降る正月に早紀江さんの着物を着ためぐみさん、中学に入学した制服姿のめぐみさん…。数え切れないくらいシャッターを切った。めぐみさんはそこにいる。
(産経ニュース 2017.11.15 05:00)
拉致事件を初めて報じた産経新聞の元社会部記者の安部雅美さんは、めぐみさんをこんなにも長く救出できないでいることについて「責任は日本社会全体にある」と語ったといいます。
所詮は他人事…当事者やその近くにいない限り、人とは無責任なものです。
無関心でいることはたやすいことですが、想像力を最大限に働かせて、当事者やそのご家族の心中に寄り添い、解決への機運をみんなで高めていかなければなりません。
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北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親・滋さんのことです。
にこやかな笑顔が印象的な方でしたが、久しぶりに写真を拝見して「ああ、年をとられたな」と思いました。
そして、もう本当に時間がなくなってきていることを痛感しました。
40年前の11月15日、当時13歳のめぐみさんが北朝鮮の工作員によって拉致されました。
この事件が明るみに出るまで20年もかかったのは、なぜだったのでしょうか?
新聞やテレビの責任も大きかったと思います。

【拉致40年 めぐみさんを救え(1)】
老いる父…誕生日に「あの日」を重ね
両脇を支えられ、ゆっくり杖をついて現れた。うつろな視線。ひとりで歩くのもままならない。「お久しぶりです」と声をかけると、顔をあげた。柔和な表情を浮かべる。「ああ…、ごぶさたしています」。口ごもりながらも、あいさつを返してくれた。
腰掛けるにも介助が必要だった。髪は真っ白になって久しい。会話中でもしばしば目をつぶり、突っ伏しそうになる。「お父さん、起きてください」。妻の声にうなずく。強い薬の影響もあって、体調が悪い日は時々、意識が混濁する。
みな老いる。病みつく。14日で85歳になった。この1年で体は急に言うことをきかなくなった。字が書けない。言葉が出ない。「こんなふうになるなんてね」。横田めぐみさん(53)=拉致当時(13)=の父、滋さんのとなりに座る母、早紀江さん(81)はそうつぶやいた。
■ ■ ■
「これからはおしゃれに気をつけてね」。40年前の滋さんの誕生日。中学1年だっためぐみさんは小遣いからこげ茶の携帯用の櫛を買い、滋さんにプレゼントした。家族で囲んだ秋の夜の食卓は温かかった。
めぐみさんは翌朝、「行ってきます」と登校したきり、帰ってこなかった。北朝鮮工作員が無慈悲に連れ去った。耐え難い境遇。滋さんにとって、誕生日を重ねることは、めぐみさんが忽然と姿を消した「あの日」を重ねることだった。
めぐみさんからもらった櫛はジャケットの胸ポケットやセカンドバッグに入れて持ち歩いていた。だが、外出頻度が減った最近は寝室のたんすの引き出しに保管したままになっている。
めぐみさんは「おとうさんっ子」だった。4つ下の双子の弟が生まれ、早紀江さんがかかり切りになったため、めぐみさんは滋さんになついた。滋さんも溺愛した。「いつも抱っこしていた」(早紀江さん)
滋さんは暇さえあれば、めぐみさんや家族の写真を撮った。家族旅行、運動会、雪降る正月に早紀江さんの着物を着ためぐみさん、中学に入学した制服姿のめぐみさん…。数え切れないくらいシャッターを切った。めぐみさんはそこにいる。
(産経ニュース 2017.11.15 05:00)
拉致事件を初めて報じた産経新聞の元社会部記者の安部雅美さんは、めぐみさんをこんなにも長く救出できないでいることについて「責任は日本社会全体にある」と語ったといいます。
所詮は他人事…当事者やその近くにいない限り、人とは無責任なものです。
無関心でいることはたやすいことですが、想像力を最大限に働かせて、当事者やそのご家族の心中に寄り添い、解決への機運をみんなで高めていかなければなりません。
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